プロフィール
オリンMessengerよっしぃ について
あんどうたかえ = オリンMessengerよっしぃ
チャネリングにより、オリンや他の高次元の愛と光たちと繋がり、宇宙の叡智を学ぶ事で、人生を自分に引き戻し、”私のままで生きる事“を日常で実践するチャネラー。
山形市生まれ
2015年5月~11月 太陽舎アマラ京子氏主催「オリン 魂が目覚めるチャネリング講座in山形」を受講しオリンチャネラーになる。
2015年11月 チャネラーとして生きるビジョンを受け取りその道を進むと決意する。
2015年12月 “オリンのチャネラーよっしぃ“として活動を始める。
2016年8月 「オリンチャネリングアドバンス講座」を受講。
・ソウルリーディング
・過去世リーディング
・エネルギーワーク
・マッチング等を学ぶ
2016年より オリン瞑想会を主催。
2017年より 瞑想会と併行してチャネリング講座も開始、自分のままで生きるオリンチャネラーを育成。
2024年3月 オリンとの共同作業を更に深める為オリンMessengerよっしぃとして活動を始める。
現在、
本来の魂の輝きを取り戻すための 個人セッションやワーク、講座などを提供。
日常の中でたくさんの“気づき“を腑に落とし、現実に揺り戻されながらも、自分のままで生きる事を始めたい方たちの、魂の目醒めと行動する勇気をサポートしている。
目の前の方の“魂を覆っている何か”が、宇宙の叡智に出会い、弾けて、本来の輝きを取り戻す“光のスパーク”を視る瞬間が至福。
愛で循環する世界を創るため、自分を信頼すること、他者の魂を信頼すること、宇宙を信頼することを日々生きる。
あんどうたかえ=オリンMessengerよっしぃの物語
はじまり ― 母との関係性 その1
10歳位まで、母が専業主婦だったこともあり、いつも母と一緒で とても仲良しでした。母は苦労して生きてきたと思い込んでいた人で、私たちにその苦労を味合わせ無いように、先手先手で教えてくれていたのでしょう。彼女なりにとても愛情深く育ててくれたんだと思います。今はとても感謝しています。
母は、1から10まで、すべてを手順通りにできることが当たり前と教えてくれる人で、人として間違ったことをした時は、かなり厳しく叱られました。”世間様に申し訳ない”とか”ご近所さんに笑われる”と言って叱るのです。
それでも、小さい私はとても素直で自分を疑うことなく、まっすぐに正直に生きることができていた気がします。
小さい頃〜小学校時代
小さい頃は、母は教えられた通りにできるまで、何度も何度も繰り返し寄り添ってくれたので、できないと言う概念が育ちようがなかったのかもしれません。今思えば、ひとり遊びも習い事も、出来るまでやるのが当たり前で、泣きながら必死に頑張っていたことを思い出します。
「出来ない!」と投げ出す事は許されませんでした。春生まれだったこともあり、小学校の頃は何でも出来ました。勉強も、運動も、そつなく全般的にできる子供でした。
出来ることが当たり前、全てにルールがあって、それをクリアすることが良いこと!と言う概念が刷り込まれていった時期だったと思います。大人のする事は間違いないと言う思い込みも持っていて、自分の中の違和感や自分の感覚でわからない事は不思議なことと捉えていたと思います。
今思えば、後で自覚することになる、ADHDの特徴である”思ったことを空気を読まずに口に出してしまうこと”や、授業中でも”心に留めておけず、すぐに話してしまうこと”これを“積極的でリーダー気質”のように、良いほうに変換してくれる環境にいたと思います。
忘れ物も多くて、毎日家に取りに行かされる子供でした。学校から自宅まで10分程度でしたが、2回も3回も取りに行かされる事もあり、子供ながらにキツかったです。昭和のゆるい頃の話ですw
母との関係性 その2
中学位から、私は母のことを拒絶するようになります。高校生になると、劣等感と自己卑下がやってきて、自分のことを大嫌いになり、自分を許せなくなると、「そんな私になったのは母のせいだ」と思うようになっていきました。
その頃”母原病”(母親が原因で子供に異常が出ること)という言葉が流行っていました。私はこの頃から母を見下して、小馬鹿にするようになっていくのです。
それから、私は、自分が49歳になるまで、母と面と向かってなごやかに話をすることがほとんどありませんでした。父や、妹も一緒にいるときは、普通に会話できるのですが、母と2人だけになると、私の周りに怒りの渦が巻き起こり5分と持ちませんでした。
今は、人生の節目節目で母からの言葉が思い出されるのですが、その話をしてくれた時 私はどんな態度をとっていたのだろうかと悲しくなります。それが、49歳で、オリンと出会ってから、母の愛のカタチを受け取ることができるようになっていったのです。
自分を許せるようになるのと比例して、母のことも許せるようになっていって、私の中で母は私だったことに気づいてきました。母が他界するまでの約5年間、少しずつ私が心を開き、2人だけのなごやかな時間を持つことができるようになりました。
共にある人生で、母を心から信頼して、愛が循環していたのは、子供の頃と最後の5年間を合わせて17、8年間位ですが、マインドではない深い部分で、母の愛を受け取ったり甘えたりしていたのだと今は思います。
中学生〜高校生時代
中学に入ると、どんなに頑張ってもできないことがやってくるようになりました。家で宿題をすることが出来ず、もちろん、1人で学習することも出来ず、嫌いな先生の言葉は何一つ頭に入ってこない。成績が下がっていく一方でした。
出来るようになるまでやるのが当たり前と刷り込まれてきた私にとって、”出来ないことがある自分”が許せなくなるのです。自己肯定感の拒否=自己否定、そんなことがこの辺から始まりました。
中学生の頃は、私は何者か?なぜ生きているのか?なぜ高校に進学しなければいけないのか?そんなテーマで生きていたと思います。
そんな中で、何も考えず、頭が空っぽになる時間、”放課後の部活”のバスケ部の時間が大好きでした。高校受験の直前には、勉強して”わかることが楽しい”と言うスポットに入り、勉強に夢中になったのを覚えています。宇宙に動かされたと感じることの1つです。
高校生になってからは、小学中学がとても田舎でのんびりした学校だったと言うこともあり、これまでの価値観で生きていけなくなります。劣等感と自己卑下がいよいよ強烈に始まります。
・私なんてなんの価値もない
・誰にも理解されない
・本当の私を知ったらみんな嫌いになるだろう
と毎日思っていました。
高校時代に笑っている写真が1枚もなくてw
人生から逃げていました。そして、私が不幸なのは誰かのせい何かのせいだと思っていました。
社会人になる
地元企業に事務職として就職しました。1年目には、これまでの意識では、生きていけないような時代の波に飲まれていきます。事務職だったのですが、ケアレスミスが多すぎて、会社にとっては”使えない人材”だったのだろうと思います。あの時はあまり気づいていませんでしたがw
そんな企業で体験した事は、
・本音と建前がある社会構造
・本人の前では言えないようなことを本人のいないところで話す事の不思議
・そして芽生えていく他者への不信感
・横領(社内での処理の仕方)
・同僚(先輩)の自殺
・社内で不倫
私にとって、キャパオーバーの毎日がやってきて、1年と少しで退社します。それから、アルバイト生活が始まります。フリーターなどと言う言葉もない時代のことです。風当たりは強風でしたw
これまでの人生で、経験してきた職業は、
・お菓子屋さんの店員
・喫茶店のホール
・ホテルのレストランのホール
・化粧品の販売
・消費者金融の窓口
・結婚式場の宴会係
・デパートの催事会場での販売
・補正下着のネットワークビジネス
・大手住宅メーカー展示場の契約社員
・ブランド下着会社販売社員
このほとんどは結婚前に経験しています。
そんな中で、今でも天職だと思えるような婦人服の販売へと辿り着きました。地元で、この仕事に出会って、毎日がとても楽しくなりました。商品も愛していたし、お客様も愛していたと今はわかります。愛の循環の中にいました。
高額商品だったこともあり、お客様と1、2時間かけてゆっくりと接客する仕事でした。そして、私のプレゼンが受け入れられ、その方がますます素敵になっていくことが本当に楽しくて、私にとっての天職だったと今も思っています。
その後 販売していたお洋服のメーカーから声が掛かり、日本橋の三越で働く機会を得ます。都会で働き、初めての一人暮らしを体験します。
すべての時間が自分のもの。毎日の仕事はとても楽しい。今考えると、人生最高の日々を送っていました。それでも、”人生には苦労がつきものだ”と言う勝手な思い込みを生きていたので、小さい事を拾っては、”全てがうまくいくなんてありえない”を生きていました。
旦那との関係性 その1
そして、いろんな偶然や宇宙の采配により主人と巡り会います。当時新潟で暮らしていた彼の次の転勤先が偶然山形市になった事がきっかけで、仕事を辞め、山形に戻る事を選択して、1995年結婚しました。
私は彼が大好きです。彼と一緒に人生を歩みたいと選んだ人です。彼はとても穏やかで怒ったところを見たことがありませんでした。あまり口数の多い人ではなかったけれど、愛されている事を受け取って暮らしていました。2人でいる時間がとても心地よかった。
結婚から2年目に妊娠して流産を体験します。それをきっかけに 私は外側の世界が怖くて一人では何も出来なくなりました。彼が居ると色んな事が出来るのに、彼がいない昼間は玄関のチャイムが鳴っただけでも恐ろしく布団を被って泣いていました。
そんな状況の中で出会ったのが「魂の伴侶」で有名なワイス博士の本たちでした。私のスピリチュアルの学びの始まりです。(余談ですが、その当時は前世療法をして欲しいと思っても、2年待ち3年待ちの世界でした。今、私自身が過去世リーディングをしている事が不思議な感じがしますw)
その後、彼の仕事の為に何度か引っ越しをし、体調も精神も落ち着いて暫く経ってから、彼が今までの仕事を辞めて 二人でコンビニを始めることになるのです。その為に宮城県から山形県川西町に移住することになりました。
コンビニを始める
私たち二人は、誰も知り合いのいないこの土地に移住し、コンビニを始めました。
その頃の私は過去世の影響もあり、闇雲に大衆が嫌いでした。その為にこの町が怖くてしかたありませんでした。
それを隠すために外側と”戦う私”を保ち自分を守っていました。
今思えば、どの町に行ってもそうだったと思います。それなのにこの町の人たちはとても優しく私に接してくれて、この町に来たからこそ、自分を癒すということが出来たのだなぁと思います。
そして、過去世を癒すと、今生が癒されると同じように、今世で過去世につながる傷を手放すことで、過去世も癒されて、魂の深い部分で変容していくと言う体験をしました。
“今を生きる”ことがどれほど素晴らしいことなのか、この街で暮らしながら気づかされていきました。
旦那との関係性その2 とADHD
2004年、引っ越しをして、お店を出し、2人で一緒に働き始めます。この年から2人の関係性が大きく変わっていきました。彼は本当に私の全部を許してくれる優しい旦那様だったのですが、仕事の上司になってしまいました。仕事となると、許されないことが多くなって、毎日が苦しくなっていったのです。
あまりにも私には出来ないことが多すぎて、毎日死んでしまいたいと思うほどでした。もちろん、私自身も自分に嫌気がさしていましたが、それが毎日の事となると、彼も大変だったろうと思います。
私は彼から愛されていることがわからなくなっていきます。お店が無くなったら離婚されるんじゃないかという不安の毎日がやってきました。だからこそ、必死に頑張るのですが、能力的にも頑張ることが限界になっていくのです。そんな時、私がADHDだということに気づきます。
“私には、生きる価値がない”そう思っていたある時、ADHDという発達障害のことを知るのです。いろんなことがちゃんと出来ないのは、根性がないとか、やる気がないとか、だらしないとか、努力が足りないとか、性格が悪いとか、そうではなく、
もちろん、外側からは、そう見えることであっても、それが出来ない脳みそだった!欠落している脳みそだったんだ!右手があると思って頑張ってきたけど本当はなかったんだ!それくらいの衝撃で、救われました。
でも、それは私の中でわかっただけで、外側の世界が変わるわけではなく、出来ない事は出来ないままで彼に苛立ちや落胆を与えている事実は変わらず。
ADHDのことを恐る恐る、彼に告げても、「そうなのかお前辛いな」みたいな肯定はなく。その当時の彼も生きることにいっぱいいっぱいだったのだと思います。そして「その環境を与えたのが私だ」と言う負い目をいつも持っていました。
この苦しい毎日はその後もしばらく続きました。本当に、私には生きる価値がない、死んでしまいたい、と思うことが何日も続いた時、勇気を出して心療内科に行くことに決めました。生きる為です。
こんな苦しい毎日でも生きたかったんだなぁと今思います。
病院では、「ADHD自体が悪いわけではなく、それは特性なのです。その特性のせいで、社会生活が困難になる二次的に発症している症状を治すことが大事です」と言われて、お薬を処方してもらいました。振り返れば、この薬を飲んでいなかったら、死んでいたかもしれません。
お薬に助けられる
お薬を飲み始めたら、現代医学とはすごいもので 闇雲に恐れがやってくる事が少しずつなくなっていきました。全てに対して私が悪いという感覚も薄れていきました。私はせっかくこの時代に生まれたのだから、現代医学も活用すればいいと思っている派ですw
少しずつ自己肯定感みたいなものがわかるようになっていきました。結局お薬には約6年間お世話になりました。お薬を手放してから、しばらくして、人生が大きく動くことになる出会いを迎えます。
アマラ京子さんと出会う
その後チャネリングの師になる、アマラ京子さんと出会ったのは2014年の秋です山形の私の知人と京子さんのコラボイベントでした。イベントの内容よりも、京子さんにとても興味が沸き参加することにしました。自分で決めたと言うよりも、本当に宇宙に導かれ全てのタイミングがそこを指差した、そんな感覚です。
はじめて出会う京子さんは、赤裸々に自分のことを語っていて 本当にびっくりしました。こんなにも自分を隠さないで、堂々と生きている人がいることに驚いたと同時に、初めて会った私たちを信頼して話してくれる姿に感動しました。
京子さんは、あの時も今も変わらない、ブレずに自分の真実の愛を生きる人です。
今思うと、自分への愛、他者への愛、初めて会った人であっても、その魂を無条件に信頼する事、それを行動で見せてくれたのでした。
そして、私は、「自分のままで生きていい」を言葉じゃないところで受け取ったのかもしれません。
その出会いをきっかけに、私の中のたくさんのエピソードを経て、2015年「オリン 魂が目覚めるチャネリング講座 in山形」を受講する事になるのです。
講座が始まる前から、何かが変わり始めていました。
その講座とたくさんのプロセスを通じて、チャネリングって何だかわからない、もちろん全然出来ない、スピリチュアルワードが全くわからない、というスタートから、瞑想を通じて、”オリン”という愛と光の宇宙存在のエネルギーをチャネリングして受け取れるようになったのです。
彼との関係性を改善したチャネリングがもたらした気づき
私の学びはパートナーを通じてもたらされる事がとても多いと感じています。私はいつも、私のせいで彼の世界がひび割れていくという申し訳なさ、そして彼を苛立たせることで、私の世界の平和がひび割れていくという恐怖、その二つをずっと抱えたままでした。
彼は私でない人といた方が幸せだったに違いない。その意識に囚われ私の身近にいる人を想定して落ち込む。自分を他者と比べてばかりいました。
でも彼と離れることを選択したら私は一人ぼっちになってしまう。彼以上に愛せる人なんてきっともう巡り会わないだろう。私は孤独を選択する勇気があるのか。そんな幻想にとらわれ続けていました。
この意識から私を救ったのは大きな二つの気づきでした(後でわかるように書きますね)。そうしてオリンとチャネリングするようになってから、宇宙ルールに当てはめて自分の現実を見ていけるようになって、少しずつ楽になっていきます。
☆☆☆☆
あなたはあなたのままで良い。
誰かは誰かのままで良い。
すべての選択権はその人が持っている。
☆☆☆☆
このメッセージを何度も何度も受け取り、
☆☆☆☆
私は私のままで良い
彼は彼のままで良い
私の人生の選択権は私が持っている
彼の人生の選択権は彼が持っている
彼の感情は彼のもの
たとえ私が引き金になって、
苛立ちがやってきていたとしても、
それは彼のもので、私のものではない。
☆☆☆☆
こうやって少しずつ考えを変換していくようなことができるようになっていったのです。でもこれは本当に少しずつです。チャネリングが出来たから、すぐにではありません。
言葉を受け取って、自分の日常に当てはめていくような気づきはゆっくりゆっくりとやってきます。チャネリングメッセージを受け取って、言葉の意味はわかっても、自分の中の解釈は“地球の時間”を使ってやってくるのです。
こんなふうに、少しずつ意識を変えることが出来て、具体的に何があったか覚えていなくても、2人の関係性が少しずつ良くなっていきました。そんな中で、彼とのパートナーシップに対する“ひとつ目の大きな気づき”がやってきます。
私は「彼の怒りによってコントロールされている、支配されていると思っていたけれど、彼が怒らないように、怒りの矛先が私に向かないようにと立ち回ることで、”私が”彼をコントロールしていた」事に気づきます。
自分を弱者に見立て、彼を悪者にしてコントロールしていた。気づいた時に自分の傲慢さに愕然としました。
私たちは地球に生きている時間を使っていきます。気づいてすぐ今までの無意識で選択していた行動や状況が変わるわけではなく、何度も何度も同じことに気づいて、少しずつ少しずつ行動を修正し、それが当たり前の日常になるまでゆっくりゆっくり育てていかなければいけない。毎日の訓練に他ならないんです。
それでも、根本の意識が変わることで、そこから導かれる行動は自然に変わっていく。それを何度も修正しながら、日常を変えていく。絶対に変わっていく。
“二つ目の大きな気づき”は”愛”ということです。もし彼が私ではない誰かを愛し、彼女を選択したとしたら、私はきっと孤独になり 寂しい毎日を送るでしょう。しかし彼を愛する愛と言うものは、勝手に私の内側から溢れ出てくるもので、私の意識でコントロールできるものでは無いのです。私は彼を愛している。それを自分の内側で気づいたとき、その豊かさに打ちのめされました。
ただただ愛が内側からやってくる感覚を彼のおかげで味わうことが出来ている。そして今生ではその人と一緒に暮らすことができている。愛を分かち合う瞬間がある。これ以外にどんな豊かさがあるのだろうか?
私は自分の内側から勝手に湧きあがる愛に気づいた時に、その愛を受け取る自分自身も愛していいと腑に落ちていくと感じています。
それまで私は人生の目標に”自由で愛と信頼で結ばれたパートナーシップ”を掲げていました。
オリンと出会ってから8年間、そして、気づいたのです。パートナーシップが目標ではなく、私にとって大事だったのは、私が私として生きること、いつでも自分の感情を自立させている事でした。
誰かのおかげで豊かさがやってくる、誰かといるから幸せにいられるような外側の世界ではなく、それ以上に、それを感じる自分自身がそこにいるから幸せなのだということ。
この気づきは 私の日常を根底から変えていきました。
私は今、毎日が奇跡の中にいる事を知っています。
オリンMessengerよっしぃ
私たちが命を使って表現する事は、全てアート。私の愛から身体を使って溢れ出るもの、チャネリングメッセージもその1つ。私はチャネリングアーティストです。そして、オリンから始まり、愛と光でサポートしてくれるエネルギーたちとチャネリングします。
世界中にオリンチャネラーはいっぱいいます。でも、私の命と愛とこの身体を使ってしか表現できないことを私は地球に届けたい。だからチャネリングアーティストと名乗っています。
あなたもアーティストです。
例えば、家族のために、お料理を作るとき、食卓に並ぶもの、すべては、あなたが創り出したアート。私たちは愛を表現するために生きています。私の愛を表現すること。それは生きることすべてなのです。